2009年7月 9日 (木)

北海道 四季 デジブック

club 相変わらず蒸し暑い日が続きますね。梅雨が終われば試練の夏。画像と音楽でさわやかな北海道をお届けします。日本離れした美しい自然はいいですね。Hoku013

※ クリックで拡大。BGMはアベマリア。画像は撮影したもの及び有料素材。5分程度。

  ぽちっとよろしくです

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2009年7月 7日 (火)

七夕すぺしゃる(^_^;) 今日は逢えるか牽牛くん

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★ 七夕はいいですね。子供のころを思い出します。父が山から竹を切ってきました。短冊も家では色紙を切って作っていました。習字の勉強だと言われ、筆で一生懸命書いたものです。コヨリは母が撚ってくれました。書きながらうるうるしますweep。ところで、あのたくさんの願いごと、今どうなってんでしょう。
 バレンタインデーとかホワイトかブラックか知りまへんがそんないわれも何もろくに知らん日より、日本の商売人はん、ぜひ七夕を愛の告白の日に。ボーナス直後で売れまっせー。年に一度、男も女もパソコン打ってもええから愛の短冊添えて、夜、本命に物贈る。天には天の川、そのあと夜明けのコーヒー二人で飲むか、一人で膝小僧抱いて泣き濡れるか知りまへんが、最高にローマンチックでっせーheart02。義理方面は短冊、テキトーに書いて昼に配ればよろしおます。
 七夕の起源は2000年も前の中国、漢の時代、日本には奈良時代にすでに伝わりました。長い間宮中のやんごとなき行事でしたが、江戸時代に習字手習いなどのため、ようやく庶民も祝うようになりました。天の川をはさんだ壮大な織り姫と牽牛の恋物語、今日、もし雨が降れば「催涙雨(さいるいう)」と呼ばれ二人が流す涙雨といわれています。なお、東北や北海道では旧暦の8月に祝うところもあるようです。

 前に記事にした三ヶ島葭子さんの歌です。やはりいいです。

★ 天の姫の小指はなれし切り爪のこぼれてありぬあけぼのの月

★ この三とせ君とわれとのかはしたる文の数にも似る天の川

※ この記事は「七夕すぺしゃる」(^_^;)ですので下記のホタルもよろしくです。(^_^;)

 ぽちっとよろしくです

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2009年7月 6日 (月)

わたしはホタルと心中する  神田左京

★ ちょっと時期は過ぎたのでしょうがホタルは好きです。初夏の夜、はかなく明滅し、浮遊する薄黄色は幻想的です。「ホタルと心中する」と一生独身、定職さえ持たずホタル研究に生涯を捧げた人がいます。ま、大関級の奇人変人でしょうが、世の中、ゆるぎない志さえあればたいていのことには耐え、自分で納得いく人生を送ることができるのですね。誰のものでもない、自分の人生です。

Icon_hotaru01  源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っているIll_hotaru01_2

 神田左京、1874年(明治7年)長崎県で生まれます。東京で英語教師をしていましたが33歳で渡米、生物学を勉強し41歳で帰国。ここまで輝かしい経歴です。何があったのでしょうか、以後、彼は定職にも就かずホタルの研究に没頭します。相当変わった人ではあったようです。人と交わることを好まず、学会の大御所の論文でも誤りと見れば徹底攻撃、まぁ、これじゃ人は寄りつかないですね。「わたしはホタルと心中する」と妻帯もしませんでした。まず嫁ぐ人はいなかったでしょうがcatface。しかし業績は海外にまでとどろき、英国学会からは「ぜひ会員に」、皇室からさえ「進講を」と誘いがあります。驚いたことに彼は「権威は嫌い」とことごとく断ります。生活は彼を理解する少数の篤志家による援助のみで赤貧洗うがごとき生活でした。あっぱれと言うか、徹底したアホというか、見上げたものです。1935年(昭和10年)、出版社もつかないため、「ホタル」を自費出版します。これは未だにホタル研究家では聖典とされる名著で、古書店では2万円ほどします。その後まもなくの1939年、65歳で没します。
 彼の業績の一つに「源氏ボタルの発光間隔は日本の東と西では違っている」ことを発見したことが上げられます「それがどうした」とかヤボなことは言わないでください。西日本では2秒おき、東日本では4秒おきと東が倍も長いそうです。理由つけに研究者は悩みました。何の役にも立たないですがいいですねー、こんな悩みlovely。遺伝子の違いと言う説が有力でした。しかし、ここで元暴走族のお兄さんが新説を立て解明するのです。

Icon_hotaru01_2  元暴走族→区役所職員→ホタル研究で博士号

 東京板橋区役所職員、阿部宣男さん、暴走族でならしました。友人を3人もなくし暴走族を卒業します。大学は中退、潜り込んだ区役所でたまたまホタルの飼育を担当、のめり込みます。発光間隔の違いは単に温度の違いであることを解明しました。西も東もホタルは同じで温度が高くなれば発光間隔は短いのだそうです。なんだ、簡単じゃんdelicious。阿部さんは16年のホタル研究を「人の感性とホタルの光」という魅力的なタイトルの論文にまとめ、2005年、茨城大学で理学博士号を授与されています。彼も神田左京を「反骨ぶりにしびれる」と尊敬しています。波乱の人生を振り返り、「あきらめない。決してあきらめない。必ず1歩前に出るんだ」と常に思っていたと語られています。
 異色の研究者二人について書きました。ホタルの妖しく、はかない光は魔力のように人を魅了するのでしょうね。ゆるぎない人間の志はすばらしいと思います。無理心中かどうか知りませんが、ホタルとさえ心中できるのです、世の中、心中の種にはこと欠きません。
 ホタルは自然の清浄さのバロメータです。いつまでもホタルの光の絶えないことを願います。

       鳴かぬ蛍が 身を焦がす  …関係ないですねhappy01

※ ホタルの素材は「風と樹と空と」さんの提供です

★ 「ホタル」    神田左京 著

 「ホタル、こい!―ホタルの光を科学する」   阿部宣男 著

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2009年7月 4日 (土)

スパゲティと神の道化師  M.ジャクソン  V.ニジンスキー

★ 「わたしは皿のスパゲティ」 マイケルジャクソン

Michael_jackson_19842  彼の急死はわたしも驚きました。熱烈なファンにはどやされるでしょうが、わたしは彼には嫌悪が先立っていました。ブラック イズ ビューティフルのマルコムXに感動して育った世代、異様に白く、崩れていくような顔にはどうしてもなじめませんでした。白人におもねるため肌を白くし、整形を重ねたと思っていました。死後、調べてみてわたしには誤解があったことに気づきました。ファンは周知のことでしょうが、肌は尋常性白斑という病気であり、その治療もあり肌が白くなっていったとのこと。整形も発端はステージの鼻のケガであったこと、これらは初めて知りました。本人も認めているようにその後数回の整形手術は受けているようですが芸能界では珍しくないことでしょう。彼は生前、「自分は皿のスパゲティだ」と述べていたそうです。あちこちからフォークを刺し込まれ食べ尽くされるスパゲティ、死後この言葉は異様な実感を持って迫ります。死後も様々なゴシップが飛び交い、莫大な遺産や子供の養育問題は今後長く尾を引くことでしょう。彼もまた周囲に文字どおり踊り続けさせられた哀しい男だったのだと今は思います。人柄もよく人に気を使う人物であったとのこと、あちこちから食い尽くされ、自分は消えていくことを覚悟していたのでしょうか。
 東京の千代田区にも相当する広大なネバーランドを城としたマイケルジャクソン、ピーターパンのように永遠の若さを求めたのでしょうか。人は必ず老い、やがて死んでいきます。無意識にそれを拒否しているとき、人は緩慢な自殺とも言うべき破壊的人生を知らず知らず選ぶように思えてなりません。夭折したスターたちの死の秘密を見るような気がします。柄にもなく今回いくつか歌やダンスを見てみました。やっぱすごいダンスです。かっこいいです。
 彗星の光芒を残し新たな伝説となった彼、地上の苦しみから逃れ今はかってハーレムでそうしたように自由に楽しく踊っているのでしょうか。

♪ Beat it 2008

★ 「神の道化師」 ヴァーツラフ・ニジンスキー200pxnijinsky_005

 20世紀初頭、わずか10年余りの活動でしたが今なお語り継がれる伝説のダンサー、ニジンスキー(1890年~1950年)。ロシアでポーランド人の子として生まれ、幼い頃からダンスを学びます。ロシアの富豪で芸術プロデューサーセルゲイ・ディアギレフとの運命的出逢いにより、ヨーロッパのバレエ公演で大成功を収めます。ニジンスキーはディアギレフと同性愛の関係にあったと言われています。驚異的な脚力により高く跳躍し、空中に静止したように見える(麻原尊師とは違いますdelicious))ダンスは観客の度肝をぬきました。1912年の「牧神の午後」ではステージで陶酔の余り実際に自慰行為を行うという前代未聞の事件で大きな顰蹙をかいます。翌年の「春の祭典」では、クラシックバレエでは考えられなかった足を内股にし、頭を曲げるという振り付けを行い、劇場は騒然となりました。この振り付けが現代バレエの幕を開けました。
 南米公演の途中、ハンガリーのバレリーナと結婚しますが、これがディアギレフの大きな嫉妬と怒りを買い、バレエ団を解雇されます。自ら新たなバレエ団を旗揚げしますが手ひどく失敗し、心労をつのらせます。以後運命は下り坂に向かいます。1916年ころから統合失調症の兆候が現れ、人を避け、閉じこもりがちになります。1919年スイスで行った、自ら「神との結婚」と呼ぶ公演を最後に、二度とステージに立つことはありませんでした。それから亡くなるまでの30年余り、ヨーロッパの精神病院をたらい回しにされ魂は闇に閉ざされたまま、1950年、ロンドンで60年の生涯を閉じました。

 精神病院入院直前彼は手記を残しています。迫り来る狂気のなか奔騰するイメージ、彼岸を飛翔しイメージはすでにこの世のものではありません。「神のために踊る わたしは神の道化師」、彼もまた矮小な人間界の生死を無意識に拒否していたのでしょうか。傲慢です。われら凡俗は地を這い、同じような日を同じように送り、やがて老い、死んでいきます。傲慢の罰が狂気であり、夭折であるのでしょうか。われら凡俗、ほっとすると共に、一抹の羨望を持たないでもありません。

★ ニジンスキー 神の道化」   鈴木晶 著

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2009年7月 2日 (木)

夢がまことか 愛の”だましあい”  映画「グッバイ レーニン!」

★ 2004年、ドイツ映画「グッバイ レーニン!」が上映されました。わたしは当初、社会主義への教条的な決別映画と思い敬遠していましたが、これがとてもおもしろい。ドイツ人にこんな笑いがと思うくらい笑い、そしてしんみりと、人の優しさに涙する秀作でした。人は夢にさえ生きることができる。いや夢が本来のこの世なのか、考えさせられます。

51tj6xznddl__sl500_aa240_ ★ 優しい息子、一世一代の大芝居  

 何年も前に上映され、今ではネットでも全容を知ることができますので、ネタバレになりますが記載します。

  アレックスは母クリスティアーネと家族で東ドイツに住んでいます。クリスティアーネの夫は10年前、西ドイツに単独亡命、クリスティアーネはそれ以来、意地になり東ドイツ体制の熱烈な信奉者になります。一方、アレックスは東ドイツ体制に疑問をもち反体制デモに参加、警官隊と衝突します。折り悪くそれをクリスティアーネが目撃します。大きなショックでクリスティアーネは心臓発作を起こし意識を失います。奇跡的に意識を回復するまでの8ヶ月間に、ベルリンの壁が崩壊し(1989年)、東ドイツは消滅するのです。次にショックがあれば母の命が危ないと聞いたアレックスは一世一代の大芝居をうちます。強烈な東ドイツ愛国者であった母が事実を知れば生きていけない、アレックスは母を自宅に引き取り、すべてを東ドイツのままに偽る、珍妙な大作戦が始まります。

  窓の外にはコカコーラの看板があふれ、西ドイツ車が頻繁に往来し、店には豊かな西の製品がいっぱいです。とにかく母を外に出してはいけない、コカコーラは実は東ドイツ発明の飲み物だと偽り、東ドイツのピクルスが食べたいと言う母にゴミ箱から空き瓶を探し出し中身を詰めます。アレックスの苦労が笑わせます。それでも自信はもてません。ついには映画マニアの友人デニスの協力で偽のテレビニュースさえでっち上げます。「資本主義に行き詰まった西ドイツを東ドイツが吸収合併する」、世界でたった一つのテレビニュースは驚くべきニュースを流します。西にあらそって流入するドイツ人は東に流入するドイツ人と説明されます。また偽の唱歌隊が東ドイツ国歌を高らかに歌います。だが母の病状は悪化していきます。最後、偽のテレビニュースが流れるなか、母は静かに旅立っていきます。

★ 夢こそまことか… 

★ 恥ずかしながら何度涙をこらえたかわかりません。 B0018539_1739395_2
  母クリスティアーネは東ドイツの崩壊を本当に知らなかったのでしょうか。クリスティアーネが夢遊病者のようによろよろと外に出たとき、ヘリコプターに首をつるされたような巨大なレーニン像が彼女を見下ろします。撤去されるため運ばれていたのです。呆然と見上げる彼女にレーニンは手をさしのべているようです。滅び去る者が取り残される者へ手をさしのべているのです。泣けるです。彼女はここで東ドイツの崩壊を確信したはずです。周りもクリスティアーネに真実を話すべきだという意見でした。アレックスはそれを拒み、母を最後まで欺こうとします。そうしているうちにアレックスの心にも変化が起きます。でっち上げたニュースで語られる東ドイツの理想、それはかって社会主義が”人類の青春”として誇り高く語られたときの理想であり、ドイツの統一を強く訴えるものでした。弱肉強食の資本主義の現実は身近に押し寄せています。アレックスも厳しい西の現実に直面していました。東ドイツの現実は語られる理想と裏腹の貧しく残酷なものでした。しかし本当にこの理想まで誤りだったのか、アレックスは母の理想を理解したと思いました。
   一方、母もけして真から東ドイツに心酔していたのではありませんでした。実は夫と西に一緒に亡命するつもりでしたが、どたんばで断念したのです。母も現実には目をつむるようにして理想の東ドイツ、理想の社会主義を追い求めていたのです。
  映画のラスト、周りでもすすり泣きが聞こえました。母と息子は優しい視線を交わします。真実を知っている母は嘘のニュースに目をくれることなく、限りない慈愛の目で息子を見つめます。息子は最後まで理想を裏切らなかった母を敬意といたわりの目で見つめ返します。息子の優しい心に祈るように感謝しながら、母は瞳を静かに閉じます。同時に瞳を閉じたのはきっと滅び去る理念なのでしょう。

★ この映画はドイツで記録的に大ヒットしました。ドイツ人の複雑な心境を表していると思います。けしてアメリカのいうように善か悪か、そんな単純なことではありません。長い間分断されたドイツ、数々の悲劇も生まれました。ベルリンの壁が崩壊したとき、ドイツ人の圧倒的多数は喝采を送りました。それと同じように、いや、それ以上に1917年ロシアの社会主義革命にロシア人は驚喜しました。何より悲惨な第一次大戦を終わらせ平和をもたらしました。そして人類の崇高な理想として革命を称揚しました。それがわずか半世紀もたたず数々のボロがあらわになり、ついには無惨に崩壊するのです。人類の壮大な実験は劇的に幕を下ろしました。
 よく言われます。共産主義は人間の見方が甘い、人間はそんなに高尚なものではない、結局人間を動かすのは人参だと。結果として批判は証明されたのでしょう。しかし、本当にマルクスが描いた「愛を愛とのみ交換する打算なき社会」に人間は耐えることができないのでしょうか……

 ま、小難しい話はここまでに。とにかくおもしろいです。笑って泣いて、アレックスと母の哀しく愛に満ちた”だましあい”を楽しんでください。

 DVD 「グッバイ レーニン!」  ヴォルフガング・ベッカー 監督

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2009年6月29日 (月)

マッキンレーに消ゆ  植村直己

  映画「剣岳 点の記」が公開されました。映画は見ていないですが原作は読みました。約100年前、地図の最後の空白点を埋めるため剣岳を目指した人々、前人未踏と思った剣岳頂上で見たものは?。すばらしい剣岳を大画面で見るだけでも価値があると思います。紹介したいのですが公開中ですので遠慮します。もう20年以上前になりますが日本の冒険家が厳冬のアラスカマッキンレーで消息をたちました。言うまでもなく人なっつこい笑顔で国民を魅了した植村直己です。

★ 追 記  妻 公子さん

 長くなるので彼の妻については書きませんでしたが、妻公子さん、誰が見ても彼にはもったいないかわいい賢婦人です。彼女は言っています「冒険家は最大のエゴイスト」。彼女はそれを覚悟の上で結婚し、彼を最大限援助しています。彼は北極の犬ぞりの上でも妻に手紙を書いています。いつでもどこでも手紙を欠かしたことはありません。それは出版されていますので興味ある方は読んでください(「植村直己 妻への手紙」 文春新書)。あまり丈夫でない公子さんのことを繰り返し心配し、読者を泣かせます。子供が母に甘えるように公子さんに甘えています。甘えを許した公子さん。夫の喜びが妻の喜びであった希有の例です。彼もマッキンレー後は堅実に日本で暮らす道を探っていました。必ず帰ってくるつもりであったことは言うまでもありません。お二人とも無念だったでしょう。お二人は夫婦愛の一つの形としてわたしは高く評価します。今時、はやらないのは十分わかっていますが。ちなみに彼は自分自身、冒険家と言ったことは一度もありません。素顔も鋼鉄の冒険家にはほど遠く、ぼくとつでシャイ、自分では”放浪家”と称しています。ただわたしも彼が結婚したのはまちがいであったと思います。山に対するときと裏腹に人生に対しては、彼のゆるみと甘えがあったのでしょう。彼も所詮弱い人間、それを一番知っていたのは公子さんです。

Imgp1237 ★ 生 涯 

 植村直己が亡くなってもう25年も経つのですね。時の流れに驚きます。彼は1941年(昭和16年)兵庫県の現豊岡市で農家の末っ子として生まれます。少年の頃から近くの山に登り始めました。1960年(昭和35年)、明治大学農学部に入学します。大学では登山部に属し、勉学そっちのけで登山に没頭します。海外の山にも夢をふくらませました。卒業しましたが就職に失敗、ここが彼の破天荒なところでしょうが、英語もろくにしゃべれないのに、アメリカへ行くことを思い立ちます。日本人の海外渡航はまだまだ厳しかった時代です。1964年、アルバイトのカネを頼りに渡米します。苦労して得た職も不法就労で摘発され、ほうほうのていで、今度はヨーロッパに。モンブラン単独登頂もクレパスに落ちて失敗、これまでの人生、落ちっぱなしです。
 1965年、明治大学のヒマラヤ、ゴジュンバ・カン遠征隊に参加、登頂します。それから彼の華麗な冒険が始まります。一覧表にしています。

 1966年―ヨーロッパ最高峰モンブラン、アフリカ最高峰キリマンジャロを単独登頂
 1968年―南米最高峰アコンカグア単独登頂、下山後アマゾン6000キロを筏下り
 1970年―日本山岳会遠征隊に加わり、日本人初の世界最高峰エベレスト登頂。またアラスカマッキンレー単独登頂、ついに世界初の五大陸最高峰登頂者となる
 ●1971年―エベレスト登頂国際隊に参加、各国の利害対立により登頂は失敗。以後彼は単独行動に徹し遠征隊に加わることはない。また山を離れ極地冒険を目指すことになる。同年、南極横断3000キロを実感するため、北海道稚内から鹿児島まで徒歩で縦断。51日で達成するので一日60キロを歩く驚異的な記録
 1976年―1年半かけた北極圏12000キロ、犬ぞり探検成功
 1978年―史上初の犬ぞりによる北極点単独踏破。グリーンランド縦断成功
 ●1980年―厳冬期エベレスト登頂隊失敗
 1982年―南極点単独踏破計画、フォークランド紛争により断念。二度の失敗は相当の打撃を与えた
 ●1984年―史上初の厳冬期マッキンレー単独登頂を目指す。登頂後、頂上付近で消息を絶つ

★ 登山に意味はない… 

 こうして振り返ってみると彼の壮絶な”冒険”人生に心打たれます。「史上初」がいくつあるでしょうか。彼自身は純粋に冒険を楽しむのが目的だったと思いますが、周囲はそれを許しません。スポンサーも次々とつき世界に名をはせると、「史上初」に追いまくられるようになります。人のやった冒険では、どんなにすごいことでも価値を認められなくなります。彼は辛かったと思います。彼自身も当初の目的を忘れていったのでしょう。彼は晩年二度、手ひどい失敗をやっています。それを取り返そうと周囲も彼自身も焦ったと思います。「史上初の厳冬期マッキンレー単独登頂」もなるべくしてなった”冒険”だと思います。こうして真の冒険家たちも、追い詰められ過去に多数が中途で命を落としています。
 1984年2月12日、彼は史上初の厳冬期マッキンレー単独登頂に成功します。ちょうど43歳の誕生日でした。しかし翌13日は連絡が取れなくなります。マッキンレーは6194メートルとヒマラヤ8000メートル峰に比べれば比較になりませんが、山は高さではありません。北極圏にも近い厳冬期のマッキンレーがどれほど厳しいか、それを彼は身をもって示しました。零下40度、風速50メートル、ささやかな人間の志を翻弄するには十分です。彼ほどの体力と意思がありながらそれに打ち勝つことはできませんでした。一瞬の烈風は簡単に人一人を吹きさらっていくでしょう。遺体発見はほぼ不可能です。マッキンレーを墓標に永遠に氷雪に閉ざされます。005

 彼は「冒険は無事に帰還してこそ冒険」と常に語っていました。本当にそうだと思います。だが誰が彼を無謀な冒険家として非難できるでしょうか。冬のマッキンレーで命をかけて戦う彼の姿が目に浮かびます。死後、父が「何の役にも立たないことに夢中になった息子にこんなに暖かくしてもらい申し訳ありません」と語っていますが痛ましい言葉です。父上、そうではありません。人間は「何の役にも立たない」ことに全霊をかけることのできる唯一の生き物なのです。直己さんはそれを身をもって世界に示してくれたのです。生きることの究極の意味と問われたらわたしは答えることはできません。それは山を登ることに究極の意味はないことに似ていると思います。ただ全霊で登る行為そのものが生きる意味だと、人は結果は知らず、何でもいい自分だけのマッキンレーを全霊で登ればよいのだと、直己さんは烈風吹きすさぶマッキンレーから教えてくれたのです。

★ 青春を山に賭けて     植村直己 著

 剣岳 点の記        新田次郎 著

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2009年6月27日 (土)

望郷  山崎ハコ

♪ 山崎ハコ、大分県日田市出身、日田は久住連峰を仰ぐ水のきれいな町です。彼女の歌の原点はこの田舎町、都会に出てもなじめず孤独な心をしみじみと歌います。150センチあるかないかの小柄な体から発する豊かで美しい声と優しい詩は、不思議な力で人を魅了してきました。Gum08_ph02067_2

♪ 波乱の人生

 昭和32年(1957年)日田市で生まれます。中学卒業後、横浜へ、 横浜高等学園在学中の昭和50年(1975年)、コンテスト出場をきっかけにアルバム「飛・び・ま・す」で衝撃のデビュー。パワフルな声量、表現豊かな歌唱、心に染みいる歌詞、美しい旋律で、“深夜放送のマドンナ”と言われるほど一部には熱狂的に歓迎されます。すべて自分で作詞作曲しています。幼い頃から慢性膵炎の持病があり、「酒・タバコどころかラーメン・コーヒーも口にできない」体質です。度々ダウンすることもありましたが、病に負けず、多岐に渡り精力的な活動を展開してきました。平成10年(1998年)に大きな危機を迎えます。所属事務所が倒産し、一時期ホームレスに近い極貧生活に陥りました。マネージメント、営業活動など全て自分で行い、アルバイトで生計を立てる毎日でした。バイト先の有線放送でたまたま自分の歌を聞き、「自分は歌わなくてはいけない」と本格的な歌手復帰を決意、昨年の平成20年、完全復帰を果たし、新曲「BEETLE」を発売することが決定しました。
 小柄でシャイ、女高生のようだった彼女も(今時の女高生は違うでしょうが(^_^;))、もう50を迎えました。人は年をとる、当たり前のことを痛感します。円熟し新たな境地を開拓、いつまでも歌ってほしいものです。今が一番美人だしwink

♪ 望 郷
 横浜に出た彼女の望郷。江戸時代の天領、日田は小京都と呼ばれる美しい町。同じように都会の片隅で孤独な人々をどれほどこの歌は慰めたでしょうか。彼女の歌は基本的に”いなかもの”の歌なのだと思います。

※ いずれもダブルクリックでyou tubeへ飛びます。右下ボタン真ん中をクリックで大画面に

http://www.youtube.com/watch?v=gvpNFLtzxR4

♪ 気分を変えて
 気分を変えて彼女のダイナミックな歌唱。

http://www.youtube.com/watch?v=Q9y0qE7_4UE

♪ きょうだい心中
 「暗い」と言われる彼女の歌でも極めつきでしょう。古い伝承歌です。有名な南方熊楠が記録しています。熊野の船頭、遊女などにより歌われていました。関西に多くのバリエーションがあるようです。人間永遠のタブー、しかし古来から数多く破られたタブー、哀しい物語を彼女は切々と語るように歌います。

   きょうだい心中

♪ ききょうの花
 好きな花であり歌です。

http://www.youtube.com/watch?v=WEbL4Qh_0Vg

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2009年6月24日 (水)

短編 「海の走者」(2)―完結 沖縄慰霊の日に

★ 「海の走者」(2)―完結 も掲載いたします。読んでいただける方は、もちろん一気にでも、分けてでも結構ですので、読んでくだされば嬉しいです。(各原稿用紙15枚)
 沖縄の戦いは本土決戦の時間稼ぎでした。二度と人の命を政治や軍事の手段にしない世を作ると、非命に倒れた人々に誓える日がくるのでしょうか。

★ すばらしい夏川さんの歌声を

               花   夏川りみ            

                        海の走者 (2)

                                 三

 真崎は二十五キロ地点を目指していた。
 ひめゆり学徒隊、最期の地となった第三外科壕がある。 
 沖縄に着き、連日真崎は金城老人と話した。

 現場を目撃した与那城京子は、許すことができず上官に話をした。しかし最後の戦闘しか頭にない軍部は黙殺した。事件から十日後にはひめゆり学徒隊に解散命令が出され、戦場に少女たちは放り出された。
 四日後の六月二十三日、沖縄軍司令官牛嶋満中将は割腹し沖縄戦の組織的戦闘は終結した。軍にとり一人の少女の痛苦に満ちた死なぞどうでも良かった。
 金城老人はかろうじて生き残った学徒隊の一人から話を聞き、真崎が生きていれば徹底的に追及することを心に誓った。
 だが真崎の生死すらわからず、生きていても日本のどこにいるのか見当はつかなかった。防衛庁まで息子と出向き調査した。ようやく真崎が沖縄で負傷し捕虜になり本土へ帰還したことまでは判明した。どこにいるのか、今も生きているのかそれは不明だった。
 戦後五十七年、金城老人は真崎四郎の名を魂に刻み生き続けた。今回、NAHAマラソン出場者リストで真崎の名を見出した。老人は驚喜していた。 
 だが老人は次第に確信をなくしていった。
 真崎は敏江を犯したことは明確に否定する。しかし私もほぼ同罪ですと、金城老人にひたすら詫び、敏江の名に慟哭した。
 マラソンが終わるまで待ってください。マラソンが終われば私も真相を究明しますと言う。敏江の死んだ前日、部隊を脱走した遠藤という上等兵がいた。彼が敏江を死に追いやったのではないかと語った。真崎の話のみで証拠もないが、老人は真崎と話を続け真崎を信用する気がおきていた。
 ――この人は本当に敏江を犯し、敏江を死に追いやったのだろうか。Himeyuri_monument2 

 真崎は二十五キロ地点、ひめゆりの塔の横を走っていた。疲れ、足が重くなっていた。 
 ひめゆりの塔、第三外科壕、敏江、臨終の地である。走る足を止め、立ち止まり壕に向かい深く手を合わせた。
 それを見つめている者がいた。金城老人である。ひめゆりの塔の前で彼は真崎を待っていた。洋三の一人娘、和子が車を運転し先回りしていた。一家は総出で亡き敏江の無念を晴らそうとしていた。
 疲れた真崎がようやく近づく。立ち止まり手を合わせている。老人の疑問はますます深くなっていた。
 突然、老人には聞き慣れぬ洋楽が鳴った。
 「おじいちゃん、お父さんから電話」
 和子が桃色の携帯を老人に渡す。老人はこわごわ携帯を受け取り耳に押し当てた。和子は笑いながら耳をすました。和子を見つめながら携帯を聞く老人に、ふと娘敏江の面影がよぎった。初冬の風は密やかに二人をなでていた。
 遠藤上等兵の調査を依頼していた息子、洋三の声は弾んでいた。
 「お父さん、ひめゆり平和祈念資料館がようやく二年前の訪問者の感想文を見ることを許可してくれました。今から丹念に調べてみます。遠藤上等兵の感想もきっとあると思います。しばらく待ってください」

 真崎は幻を追っていた。彼は二十一歳であった。
 南風原を撤退した敏江たちは、苦難の末沖縄南部伊原の第三外科壕にようやくたどり着いた。逃避行に見た光景はこの世のものとは思えなかった。
 母親が赤子の死んだことも知らず、赤子を負って泥にぬかるんだ道を必死に逃げている。赤子の頭は既に吹き飛ばされていた。赤子に気づいた母親は狂乱し泥にのたうった。死出の街道のガジュマルの木に黒い物が下がっている。よく見ると砲弾で四散した少年の胴体であった。夜は米軍の照明弾が上がり、真昼のような光に南部へ逃げる住民の顔が照らされた。住民の顔はすでに死んだようにも、生きあがく鬼のようにも見えた。死の光は花火のように美しかった。そのあと決まって米軍の砲弾が炸裂し、闇を稲妻が切り裂き、幾人ものちぎれた人間の残骸が残った。
 昼は、完全に制空権を握っている米軍機が獣でも狩るように、逃げ回る住民を機銃掃射した。パイロットの顔さえ判別できるような低空から撃つこともあった。ゴーグルで覆った顔は薄笑いを浮かべていた。

 真崎も陸軍将校として南風原から伊原へ退却した。
 第三外科壕で初めて敏江にあった日はよく覚えている。 
 負傷した部下を壕に担ぎ込んだ真崎は、部下を敏江に託した。幸い重傷ではなく、敏江たちの看病で回復に向かった。
 「金城さん、ありがとうございました」
 初めて敏江と口を交わした。 
 それからもたびたび傷病兵の見舞いに壕を訪れ、時には軍務以外のことも話した。
 米軍はまだここまでは手を伸ばさず、つかの間の平和の時であり、敏江にとっても学徒隊に入り初めての安らいだひとときだった。 
 ある日、後にも先にも一度だけであるが、第三外科壕からやや離れた丘の上で二人だけで話すことができた。水汲みに出た敏江の護衛を真崎がかってでたのである。
 楽しいかたらいがしばらくとぎれた時、真崎は大事にしているメダルを敏江に見せた。学生のように素直に自慢した。
 「金城さん。箱根駅伝て知ってますか。これは私の宝物、箱根駅伝の参加メダルです」 
 銅色の重いメダルが真崎の手で鈍く光った。
 「聞いたことあります。箱根のお山を登るのでしょう」 
 敏江は完璧な標準語を使った。沖縄方言を使うものはスパイと見なすとの愚劣きわまる軍指令が出ていた。
 「そうです。最も高いところは七百メートル以上登ります」
 「それを走られたんですか。すごいですね」
 「いや、私は登り口までの二十キロくらいですが」
 敏江にとり、この二カ月の中で初めての学生らしい対話であった。
 「また、走られるんでしょう」
 「はい、この戦争が終われば、学校に帰ろうと思っています」
 「戦争はどうなるのでしょうか」 
 敏江の声はあたりをはばかるように低くなっていた。
 「私にもよくわかりません……」
 黙り込んだ真崎は、敏江より低い声で答えた。
 「戦争が終わってまた走られたらいいですね。私、かけっこはだめですけど」
 「はは、かけっこですか」 
 二人の瞳には沖縄の美しい海が拡がっていた。戦場の海とは思えぬほど深く青かった。
 「金城さん、これだけは言います。けして死んではだめですよ。こんな戦争で死んだらだめです」 
 陸軍将校のいう言葉ではなかった。意を決したように真崎は、敏江の目を正面に見すえ言葉を発した。 
 敏江はしばらく沈黙し、真崎の瞳を伺うようにして答えていた。
 「はい、生きて兵隊さんたちを助けなければいけません」 
 敏江は言葉を続けた。
 「ですから少尉さんも、生きてまた箱根のお山を走ってください」
 海鳴りが聞こえる。丘には深紅のディゴの花が咲き誇っていた。
 「はい、ありがとう。金城さん、戦争が終わったら一緒に箱根の山に登りましょう」
 「私、走ってはとても無理」
 「もちろん、歩いてですよ」
 「きっとですよ。少尉さん。平和になったらきっとですよ」 
 真崎は七十八歳の今も、深い藍色の海と深紅のディゴの花を忘れない。

 真崎は走っていた。
 ゴールまでどんなに遅くとも歩かない。それをおのれに課していた。NAHAマラソンは起伏の多い厳しいコースである。太陽も容赦なく降り注ぐ。真崎の足取りは重くなり、苦痛に顔もゆがんできた。だが真崎はけして歩こうとしなかった。それが今の彼にできるたった一つの慰霊であった。 
 レースは終盤にかかっていた。
 糸満市を過ぎ、翁長(おなが)にかかる頃、フルマラソンで最も辛い三十五キロ地点となる。真崎は疲れていた。スタートから四時間三十五分経っていた。だがなんとしても制限時間六時間内にゴールに着く。けして歩かず止まらない。彼は一つの意志と化し走り続けた
 沿道の人々も懸命に応援した。出されるジュースやバナナは際限がなかった。
 「おじいちゃん、がんばれ、がんばれ、ゴールはもうすぐだ!」
 やがて那覇市に戻った。真崎の幻はやまなかった。

 一九四五年六月八日、飯上げに行った金城敏江の遅い帰りを心配した真崎少尉は、炊事場への道をたどった。
 遠く西の空に太陽が落ちていた。空は紅い乱雲に染められていた。地獄の戦場で見る落日は彼岸の太陽のように大きく紅く燃えていた。
 アダン林から一人の兵士が駈け去るのを見た。
 「誰か!」
 真崎は本能的に大声で誰何し、腰の拳銃に手をかけた。日本兵だ。覆面をしている。
 「待て! 止まらんと撃つぞ!」 
 拳銃を構え一発、威嚇射撃した。轟音がアダン林を揺るがす。兵士は止まらなかった。後ろを見ることなく懸命に走り去った。胸騒ぎを抑え真崎はアダン林に分け入った。金城敏江が、下半身を露出したまま気を失っていた。真崎は駆けより目をそむけながら敏江のモンペを着せてやった。怒りに震えていた。
 その場面を与那城京子が目撃した。
 「鬼!」 
 与那城は憎しみに燃えた目で真崎をにらみ絶叫した。
 「違う、誤解だ! 自分ではない!」 
 真崎も叫んだが、与那城は「鬼!」と繰り返すと逃げ去った。 
 翌朝、敏江は首を吊った。一言も語らず虚ろな目は空に漂っていた。
 真崎は哀れでならなかった。逃走した日本兵への怒りに身を震わせた。彼は無実を抗弁したが次第にその気力さえなくなっていた。部隊から遠藤上等兵が脱走していることが判明した。犯人は遠藤であろう。だが証拠はない。真崎に対する軍の査問も、遠藤上等兵の捜索も戦闘の激化にうやむやとなった。ひめゆり学徒隊の少女たちは真崎を犯人と思っていたが、部隊も解散となり少女たちの燃えるような憎悪のまなざしも見ることはなくなった。
 真崎は最後の激戦地、摩文仁の丘で重傷を負い、意識不明の体を米軍に救出され捕虜となった。捕虜となった真崎は何度も自決を考えたが、岡山に残した両親を思いかろうじて生き延びた。
 戦後は懸命に働きささやかな家庭の幸福を築いたが、沖縄の悲痛を忘れたことは一日たりともなかった。
 沖縄を訪れることは恐ろしかった。だが八十に近くなり、生きているうちに一度だけ沖縄を訪ね、悲惨な少女たちの魂に再会し心から罪を詫びたかった。敏江に会いたかった。
 遠藤上等兵だけが鬼なのではない。本土決戦の時間稼ぎのため、万に一つも勝ち目のない戦に多くの住民を巻き込んだ軍人すべてが鬼なのだ。私も有罪である。心から許しを請いたかった。
 遠藤上等兵はその後、米軍に投降し島根の実家にかえり、何食わぬ顔で暮らしてきた。彼も二年前に死亡した。
 真崎は遠藤を責めることはしなかった。恐らく敏江を襲ったのは遠藤だろう。真崎は遠藤を許すことはできない。だが証拠はなかった。何十年以上も前の戦場の話だ。白を切られたらなすすべがない。
 今回沖縄に来るにあたり、真崎は思いきって遠藤に電話をかけた。けして責めるのではない。生きていれば、敏江を初め非命に倒れた若者たちに心から謝罪するため、共に沖縄に行こうと訴えたかった。だが遠藤は二年前に癌のためこの世を去っていた。
 真崎は遠藤の家族から、遠藤が死ぬ三カ月ほど前、決死の思いで沖縄を訪ねていたことを聞いた。遠藤は何のために沖縄を訪ねたのか。推測はついたがそれを確認したかった。遠藤も心から罪を詫びたかったのだろう。マラソンが終わればじっくり調べよう。真崎の無実が明らかになるかも知れないが、真崎はそのことはさして重要なことではなかった。遠藤は戦争の加害者であり、被害者でもあるのだ。戦争がたとえようのない大罪なのだ。 
 慰霊の走りを終え、私なりにこの五十七年に区切りを付ける。

                 四

 真崎は四十キロを走り通した。 
 那覇の繁華街に入り奥武山陸上競技場が見えてきた。感激に震えた。周囲は歩く者もいるし、ゴール間近で座り込みレースを断念する者もいた。自分は走り通したのだ。 
 その頃、金城洋三はひめゆりの塔のあるひめゆり平和祈念資料館で熱心に感想帳を調べていた。資料館は真崎も尋ねた。
 南風原陸軍病院壕の模型と共に戦病死したひめゆり学徒隊一人一人の顔写真がパネルで飾ってある。写真が無くわずかな説明文だけのパネルもあった。一家全滅のため写真すら残っていないのだ。誰もがこのコーナーに来たとき言葉を失う。死者は永遠に若い。永遠の無言を強要された少女たちの、見つめるまなざしに誰もが打ちのめされる。
 敏江の写真もあった。
 愛くるしい瞳、壕では見たことのない長いお下げ。五十七年を隔て、少女のままの敏江がかすかに微笑んでいた。真崎は皺の多いシミの目立つ手で敏江の顔を幾度も幾度も撫で、人目もはばからず声を上げて泣いた。 
 洋三はこの資料館に頼み込み、二年前の感想帳を丹念に調べていた。真崎に聞いた遠藤は二年前沖縄を訪ねている。ひめゆり学徒隊と行動を共にした遠藤はここを必ず訪れている。それは直感であり、確信であった。二〇〇〇年五月の項、そこには資料館を訪れた何万もの人々の、打ちのめされた真摯な感想が書き連なれていた。
 五月十八日の記事に洋三は確かに見た。その手はかすかに震えた。
 「遠藤周介」彼の名だ。遠藤は書いていた。
 「金城敏江さん、本当に許してください。あなたは、私よりずっと長生きしどんなに幸福になれたことか。私のような罪深い者が今まで命永らえ、私ももうすぐおそばに行き、許されなくともあなたに心から罪をお詫びします」
 洋三も五十七年の歳月に目を伏せた。あの優しかった姉。彼は、ポケットの携帯に手をかけた。
 金城老人は陸上競技場入り口で真崎を待っていた。和子が車を飛ばした。
 洋三からの携帯が鳴った。和子に携帯を戻し老人は安堵した顔でつぶやいた。
 「そうか。やはり遠藤上等兵か。真崎さんは無実だった。私もうれしい。敏江もきっと喜んでいる」
 
 五十メートルほど先に青いパンツとシャツの白髪の老人があえぎながら走ってきた。真崎だ。老人は真崎を見つめた。 
 真崎は陸上競技場にさしかかっていた。疲れ切っていた。足が鉛のように重い。一歩一歩を踏み出すのに耐え難い力を要する。絶え間ない腰の痛みも彼を苦しめ、足は酔ったようにふらついていた。靴はつぶれた豆で赤く染まっている。喉はヒョーヒョーと笛のようにあえいだ。陸にあげられた魚のようだった。胸が苦しい。一息一息が深海に沈んでいく船のように重く暗かった。
 だが残り五百メートルあまり、五十七年の鎮魂のレースは終わるのだ。 
 その時だった。
 「真崎さん! がんばれ! がんばれ! あなたは無実です! ゴールはもうすぐ。がんばれ!」 
 金城老人の声をからした大声が真崎に届いた。 
 真崎は虚ろな目でその方を見た。姿に焦点は合わずとも、声をからした老人の声は真崎の耳に鳴りひびいた。真崎は声に向かって無意識に敬礼していた。五十七年の金城老人の悲しみに深々と敬礼した。 

 金城老人は思わず真崎に駆け寄っていた。
 ふらつき白目をむいた真崎に駆け寄り、肩を貸した。海で鍛えた老人の右肩に真崎をしっかりと抱き、共に走り始めていた。何も考えず自然に足が動いていた。マラソンはおろか一キロも走ったことはなかった。真崎のたえだえの息が頬を暖めすぐに冷えていった。
 「真崎さん、あなたは無実です。がんばってください。もうすぐだ。きっと敏江も懸命に応援しています」 
 二人の老人は肩を組み最後のトラックを一周した。 
 満場のスタジアムの観衆は異様な光景に驚いた。しんと静まりかえりやがて拍手が湧きあがった。拍手と歓声は、さざ波のようにゆれていたが、やがて二拍子の規則正しい大波となりスタジアムを揺るがした。観衆の声は大きく一つの塊となっていった。
 「がんばれ、がんばれ」
 「がんばれ、がんばれ」 
 真崎には歓声が沖縄戦最後の摩文仁の丘で見た南海の潮騒に聞こえた。
 あの海は悲しく美しかった。

 摩文仁の断崖には、与那城京子たち最後まで逃げてきた八名のひめゆり学徒隊が呆然と立ち尽くしていた。 南へ南へ、逃避行を重ね断崖から見たのは、なおも南に果てしなく拡がる海の美しさだった。白い波が水平線から幾重も重なり、群青の海を渡り断崖に打ちつけ、砕け、白く輝いた。800px1_3 
 愚劣な人の世になぜかくも美しき海が。少女たちは、人間の悲惨、酷薄、愚劣、すべてを忘れていた。
 沖の米艦がたどたどしい日本語で叫ぶ。
 「ミナサン、コウフクシナサイ。ケシテアナタタチハコロサナイ。モウタタカイハオワリマシタ。アナタタチハ、サイゴマデユウカンニタタカッタ。モウイイノデス。コウフクシナサイ」
 与那城は涙があふれた。
 本当にもういいのだ。敏ちゃん、私たちは本当にもう苦しまなくていいんだね。
 数分後、海に誘われたディゴの花びらのように、八名の少女は二人づつ抱き合いながら断崖から身を躍らせていた。 

 真崎はすでにこの世と幻の境はなかった。
 伴走はもちろんルール違反である。彼はゴールしても完走者にはならない。そんなことはどうでもいい。審判も注意をわすれ惜しみない拍手を送っていた。真崎の目にゴールテープがかすかに光った。主催者が特別に真崎のために張ってくれたのだ。光もかすんできた。ほとんど目は見えなくなっていた。胸が刻まれるように痛い。彼は左手で心臓を押さえ、右手を金城老人の肩にかけていた。
 けして休むつもりはなかった。魂だけが疾駆していた。ゴールはすぐだ。

 自分は今敏江と走っている。
 五十七年前の少女のままの敏江と二十一歳になったばかりの若い自分が肩を組み走っている。
 平和になれば共に箱根に登ろう。あの約束を今果たしている。
 敏江に自慢した銅のメダルもシャツに縫いつけている。
 愛くるしい大きな瞳に若い私は恋をしていたのだ。 
 もう一度敏江に、会いたい。会いたい。
 戦いのない沖縄で、五十七年前の若い肉体の自分で。
 頬を一筋の涙が流れた。

 真崎はこのまま沖縄の青い海に還っていくこと、自分の灰が海に舞うことを安らかに予感していた。

                   (了)

※ 最後まで読んでくださり本当にありがとうございます。画像上はひめゆりの塔 下は日本軍終焉の地、摩文仁の丘―クリックで拡大します。ひめゆり学徒隊、動員数297名、うち戦没者224名、圧倒的に、隊解散後の死亡が多いです。軍に見捨てられ戦場をさまよい多数が自決しました。心から哀悼します。

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